「1%と99%弱者社会」という言葉について 「資本という畑の小作人」
中世から近代にかけていえば。「小作人」というものがあったということに気づいた。
時代とともに、小作人は少なくなってきて、日本ではいなくなってきたのだろうけど。
中年フリーター というものの提唱を東洋オンラインがしていたけれども、ああいう非正規雇用の人達も、「資本の畑の小作人」ではないかと感じるようになった。まぁ、数万円から株式投資できる時代なので、なんら資本をもたない人というのはいないだろうから、そういう意味では完全な「資本の畑の小作人」ではないとも言えるかもしれないけれど、資本投資だけで生きていける人を「資本の畑の地主」と定義すれば、資本投資だけで生きていけない人を「資本の畑の小作人」と定義してもいいのではないだろうか。とくに、パート労働者や中年フリーターのような弱者的側面の強い労働者は、かなり「資本の畑の小作人」に分類されるのではないだろうか。
といっても、じゃあそういうのをなくそうと言いだすと。共産主義でも目指すしかなくなるような結論にいきそうだけれども。私は、共産主義の仕組みのほうが今よりもっと悪くなると考えているので、そういう結論の方には傾かない。
20世紀終盤のように、競争原理で経済を発展させていこうという「勝負」で、21世紀を暮らしているわけだけれども、すでに「勝負が付いた」社会において、いままでの社会のありかたで、今後は発展していけるのかなという疑問は持っている。事実はどうであれ、ソ連崩壊時に資本主義の正当性の一環として「共産主義は競争しないから切磋琢磨せずだれも努力しないから堕落して失敗した、資本主義は努力する仕組みだから勝った」などと広く知られてきたけれども。「競争に勝負がついて努力してもなんの意味のない資本主義社会になってしまえば、だれも努力しなくなって堕落して失敗していく」のではないだろうか?
じゃあ、どういう仕組みの社会にしろというのかという問を仮に受けたとしても、現在の社会システムに対する対案は、現時点では示せない。
時代とともに、小作人は少なくなってきて、日本ではいなくなってきたのだろうけど。
中年フリーター というものの提唱を東洋オンラインがしていたけれども、ああいう非正規雇用の人達も、「資本の畑の小作人」ではないかと感じるようになった。まぁ、数万円から株式投資できる時代なので、なんら資本をもたない人というのはいないだろうから、そういう意味では完全な「資本の畑の小作人」ではないとも言えるかもしれないけれど、資本投資だけで生きていける人を「資本の畑の地主」と定義すれば、資本投資だけで生きていけない人を「資本の畑の小作人」と定義してもいいのではないだろうか。とくに、パート労働者や中年フリーターのような弱者的側面の強い労働者は、かなり「資本の畑の小作人」に分類されるのではないだろうか。
といっても、じゃあそういうのをなくそうと言いだすと。共産主義でも目指すしかなくなるような結論にいきそうだけれども。私は、共産主義の仕組みのほうが今よりもっと悪くなると考えているので、そういう結論の方には傾かない。
20世紀終盤のように、競争原理で経済を発展させていこうという「勝負」で、21世紀を暮らしているわけだけれども、すでに「勝負が付いた」社会において、いままでの社会のありかたで、今後は発展していけるのかなという疑問は持っている。事実はどうであれ、ソ連崩壊時に資本主義の正当性の一環として「共産主義は競争しないから切磋琢磨せずだれも努力しないから堕落して失敗した、資本主義は努力する仕組みだから勝った」などと広く知られてきたけれども。「競争に勝負がついて努力してもなんの意味のない資本主義社会になってしまえば、だれも努力しなくなって堕落して失敗していく」のではないだろうか?
じゃあ、どういう仕組みの社会にしろというのかという問を仮に受けたとしても、現在の社会システムに対する対案は、現時点では示せない。
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