法の欠陥と最高法規:日本国憲法言論
憲法改正無限界説について、追加でいろいろと教えてもらった。 実定法主義からすれば、なにもないところからなぜ突然憲法が発生できるのか等という 議論も交わされたことがあるそうだ。現代法学の確定説としては、どんな時代にも どんな社会にでも、不文律もしくは成分律の実質的意味の憲法が 存在しているということは間違いないとされている。 では、その実質的な意味の憲法は何から始まったのか? 法実証主義の立場からすれば、厳しい目でそれを追求し探求したいものである。
人類の起源は、歴史や理科などの初等教育で理解できますが、 では、文明の起源以前の時代には実質的な意味での憲法は存在していなかったのだろうか? おそらく、中世以前の王政や欧州の暗黒時代を考えると、 人類の起源の段階では、実質的な意味の憲法はもっと原始的なもので、 単純に実質的な意味の法という状態であったのではないだろうか? 「実質的意味の憲法」が原始的な形態「実質的な意味の法」の状態であったと考えうる。 つまり、「憲法と、その他の法律」という状態ではなく「法」という一つの状態 であったと考えてみてはどうだろうか?そのような仮定を組み込んでみる。 当然、「実質的な意味の法」が「実質的な意味の憲法とその他」に性質的に 分離するのであれば、分解する要素が内在していたわけだから、その仮定を組み込んでも。 法の原始的形態のなかに「実質的な意味の原始憲法」が、 内在しているという理屈になる。理論的な見解になる。 「何もないところからいきなり実質的な意味の憲法が発生した理由にならない。」 憲法改正無限界説の立場をとれば、それは文明というものが生まれて、 「社会」というものが生まれた「革命説」をとれば解決すると言うかもしれない。 しかし、それでは「革命説」という便宜を用いただけのものであって、 「何もないところからいきなり実質的な意味の憲法が発生した理由にならない。」 ここで、話がさらに楽しくなってくる。では、法の原始的形態が人類や文明の起源の時代の 「実質的意味の憲法」なのであれば、地球の起源の時代の「実質的な意味の憲法」は、 どこにあったのか?原始的な状態の「法」として物理的に存在していたのだろう、 これは法実証主義の立場と矛盾するだろうか?地球が誕生した原理は? では宇宙の起源は?物質の起源は?量子とは何か?相対性理論は正しいのか? 法理学的な関心事項であるのかもしれないが、物理学の専門分野であるのではないか?
では、ここで問う。 法に欠陥はあるのか?
法に欠陥的要素がないと言うのであれば、理由は?根拠は? 「何もないところからいきなり実質的な意味の憲法が発生した理由」が、 解明されない状況下で、法とはいったいなんであるかの解明がなされたと言えるのか?
現行憲政下における、我々の自由意思に基づいて進む道が、 本当に正しいのか案じるのである。自由には正義が伴わなければいけない。 では、その正義が正しいのか確かめて正確に進む方法はあるのか?
私は、その正義が正しいか否かについて確かめる方法は、その正義に愛が存在しているのか という根本的なところに立ち返ると信ずるのである。 では、その正義が正しいか正義を確かめる愛が正しい愛なのか確かめる方法はあるのか? 愛とはそもそも何か?
近年の愛国心という言葉は、一人歩きしていないだろうか? 自国の文化や歴史を誇張し、他国に押し付けることが本当の愛なのであろうか? 本当の愛というものを語るのであれば、 自国の文化や歴史を知り相手の国の文化や歴史を知り、友好を深め合うことが 本来の愛の形なのではないのか?それが、親愛となり絆となっていくものではないのか? 自国の文化や歴史を誇張し、他国に押し付けることが本当に正しいのか?本当にそれでいいのか?
これは、自分自身への自問自答でもある。
これは、自分自身への自問自答でもある。
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