回想録
回想録
どの時期から書けばいいだろうか、私は、大阪のはずれの病院で生まれ、2歳まで四国に住んでいて3歳ごろから大阪湾の隅っこの埋め立て地を開発した集合住宅に住んでいた、街の区画のうちでも比較的裕福ではない家庭が集まる団地に住んでいた。幼児のころは、そんな社会的な立場や身分など理解できず、家に玩具がなかったので、外で遊んでいた、両親共に田舎の育ちなので、子供は外で遊ぶものと考えていたのだと思う。
どの時期から書けばいいだろうか、私は、大阪のはずれの病院で生まれ、2歳まで四国に住んでいて3歳ごろから大阪湾の隅っこの埋め立て地を開発した集合住宅に住んでいた、街の区画のうちでも比較的裕福ではない家庭が集まる団地に住んでいた。幼児のころは、そんな社会的な立場や身分など理解できず、家に玩具がなかったので、外で遊んでいた、両親共に田舎の育ちなので、子供は外で遊ぶものと考えていたのだと思う。
私が、幼児から少しずつ成長するにしたがって、貧富の差があることを理解しはじめた、けれど、本当の意味では理解できていなかったのかもしれないが、多少は理解しはじめていた。他人の話にも繋がるので、あまり自分や他人の子供の頃の話をするのはよくないかもしれない、きっとこのブログを書くことは後で後悔させられるのかもしれない。もう、何がなんだかわからなくなってきた。
比較的裕福な家庭では、パーティーグッズで誕生パーティをしたり、少し高価な自転車を買ってもらったりしていた。私といえば、最低限度のシャツとズボンで、スポンジケーキにロウソクがのっているだけだった、鼻炎を起こして常にシャツは常にドロドロだった。
父と母としては、精いっぱいのことをしてくれていたのだと思う。親戚も私のために色々してくれていたのを記憶している。だけど、現実は現実だった。テレビゲームを買ってくれたのも親戚だった。自分の場所がゲームにしかなかった。祖父は、四国に私を住まわせるようなことを言っていたが、父が反対した。もしかしたら、祖父のあの時の提案は、幸せのレシピ だったのかもしれない。
何歳のころから覚えていないが、小学生の歳のころだと思う、服が鼻水でドロドロで、友達がどんどん自分から離れていき、そして、家でも父親に殴られたり蹴られたりする毎日が続き、風呂の水に頭を無理やり手で押し込まれ窒息死させられそうになったり、本当に死にたいと思っていた。学校の4階の音楽室から飛び降り自殺をしようとした、本気でもう死のうと思っていた。いま思えば、死ぬということがどういうことかもわからないのに死のうとしていた自分が、子供だったと思う。そして、笑ってしまうことに学校の4階の高さが思ったより上から見たときに、そんなに高くなかったように感じ、これでは、怪我をするだけで痛いだけで、死ねない。と考え、とまどっていた。教頭先生なのか、校長先生なのかよくわからないけど、年配の先生が全速力で走ってきて私を抱きかかえて、窓から遠ざけた。 あの先生がいなければ死んでいたのだろう。その日の夜は、父親に殴られ蹴られ風呂で窒息死させられそうになり、本当の意味で半殺しにされ、翌日には、担任から学級児童全員の前で窓から逆さ吊りにされ、 あとは記憶にない。
すこしまえにWEBニュースで、4階の高さから落ちた児童が亡くなったという記事みたが、それを見たときに、「ぁぁ、あの高さからでも死ぬ可能性あったんだ。」と、「死ぬって意味も解らずに死んだ子がかわいそうだなぁ。」って、そう思った記憶がある。その子が可哀想である。
とりあえず、その自殺騒ぎあたりの記憶はあまりない。何故、いま覚えているかというと、病院のカルテに、そういう話が書いてあったので、ああそういえば子供の頃そういうことがあったのだと思いだしたのである。(入院中に飲んでいた薬が知りたくて開示請求した)
中学高校のころの記憶も、あいまいだけれど、ベルリンの壁チョコレートが日本で販売されていた時期のちょっと後くらいで、日本社会が大変身し始めたころだった。学校成績の評価基準が変わり、希望の学校に行けなかった。どう努力しても、カリュキュラム的に私は希望のコースからふるい落とされることが、わかっていたので覚悟はしていたけれど、人間努力しても無駄な事もあることを学んだ。父親も、さすがに体が大きくなった私を殴っても殴り返してくるので、昔ほどは暴力を振わなくなってきた。それでも、馬鹿みたいに意味不明なことで怒鳴られた。
両親の経済的立場の限界も知っていたし、話をしても口論になるのがわかっていたので、そのころは無口だった。両親は、それをかわいげのない子という評価していたように思う。もちろん、口をひらけば文句しか言わない、それ以外はいつも黙ってる。そんな子にかわいげなど感じるわけもない、無理もない話である。生意気に感じる息子である私に対して、父はなじったりすることに躊躇する必要もなかったのだろう。
ひきこもった。 高校の先生が精神科へ通わせるように両親に言った。父親が、ざまぁ見ろお前は異常者だ、これでお前は終わりだという目で、私を睨みつけていたのを覚えている。 意味不明な毎日ばかりで私の心は壊れた。
ひきこもった。 高校の先生が精神科へ通わせるように両親に言った。父親が、ざまぁ見ろお前は異常者だ、これでお前は終わりだという目で、私を睨みつけていたのを覚えている。 意味不明な毎日ばかりで私の心は壊れた。
さかきばら事件や、2ちゃんねるバスジャック事件が起きた時期だ。
ハンドルネームの意図がわからず、実名で 2ちゃんねるに 書き込みをしたりしていた、とにかく、周囲に自分の存在を知ってもらうしか生きるすべがないと考えた。いじめ、と言えるかどうかわからないけど、地元で仲のいい友達がほとんどいなかったし、ひきこもりだした時期から発狂したり、錯乱して大声をあげたりしたし、近所迷惑だったこともあって、私の知る人で私を助けてくれる人はいなかった。誰かに助けて欲しかった。
おそらく、あれは 私を助けてくれたのだろうと思う。テレビの取材が2回ほど来た。MBSの記者の人が、気持ち悪いくらい友達になろうとしてくれたのだけれど、その時には、兄貴心なのだということに気付かなかった。そうだともあの人は言わなかった。2回目のNHKからの話でようやく気付いた。 これは、私を助けようとしていると。励まされた、頑張った。けど、逆効果もあった、チャカされたり、嫌がらせされたりもした。
そのころは、自分が病気だとは思っていなかった。というよりも、治療や精神的なものへの理解は、あのころは今ほど進んでいなかったし、すがる人も、すがる場所もなく、どのみち同じだったのではないかとも思う。
ゲームセンターで、友人ができて、そいつの通っていた大学の夜間部に入学した。それなりにまともな仕事にもついて、大学で友達もできて、いろいろうまく行きそうだった、あのころも精神的にまいっていたのだと思う、やっと自分がすがれる自分が出来た。けれど、調子に乗り過ぎた。彼女と別れたり浮気をしたり、学校の友達と悪ふざけをしたり。あの時代、誰もが何かにすがりたかったのだと思う。本当に酷い時代だった。私のまわりの誰もが調子にのっていた。けど、ついに調子にのれる限界がきた、大学の友人とも職場の人とも関係が悪化した。調子にのってた奴らがうまくいかなくなりはじめた犯人探しを始めた。私もそうだった。そして、どこでもかしこも陰口や悪口合戦が始まった。
精神的に、本格的におかしくなり始めた。 精神病棟に隔離入院になった。隔離病棟の病室で、弁護士の夢を見た。「104で電話番号を調べて弁護士会に電話しなさい。」白髪の男性が私にそう言う夢だった。電話はかけることができたので、弁護士が病院にやってきて、隔離病棟から出ることが出来た。
おそらく、隔離入院を許可する法律が日本国憲法の
第三十四条 何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない。又、何人も、正当な理由がなければ、拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。
という条文に抵触したのだろうなと感じる。直ちに弁護人に依頼する権利など与えられていなかった。夢を見なければどうなっていただろう、、、。私は、あの弁護士さんに、感謝しなければならない立場だ、、、。
カルテの開示請求をしてわかったことだけれど、あの病院の診断は強引すぎる、、、。
カルテの開示請求をしてわかったことだけれど、あの病院の診断は強引すぎる、、、。
かといって、本格的に精神が おかしい状態は そのままで 2回目の入院となった、
その病院は比較的しっかりしていて、開示されたカルテの内容もしっかり書いてあった。
その病院は比較的しっかりしていて、開示されたカルテの内容もしっかり書いてあった。
2回目の病院の先生ともコミュニケーションがうまくいかず、いま通院している病院へ行くように強引に紹介状を書かれた。
いま通院している医師とは何年もかかったけど、ようやくコミュニケーションがとれるようになってきた。病名?障害名?症名?診断名? なんと言ったらいいのかわからないけど、アスペルガー障害という精神障害という名前で診断が現在おりている。診断書が出たことや、カルテの開示請求をしたことで、自分が本当におかしいことがわかった書類にしてあるので、文字にされたものを読めるのだけれど、たしかに理にかなっていた、、しかし、ここでもまた困ったことが起きた。自分が今きいている声が幻聴なのか、いま自分が錯乱しているのかしていないのか、自分の言おうとしていることばが言っていいことなのか、相手に伝わらないことなのか、伝わっているのか、いないのか、相手がわからないふりをしているだけなのかどうなのか、それが自分で判断できなくなったのである、、、。
両親を訴えてていたが、原告被告共に本人訴訟で挑む(臨むではなく挑む)格好となりはっきりいって裁判にならないので一回目弁論期日で紛争解決条項をつけて訴訟終了というかたちで終わらせてもらった。親父は、答弁書で私を異常者扱いし、虐待があったことへの謝罪の意はないとしていた。
「失われた30年に向かいつつある」という言葉がある。私がものごころついてからこの国は失われた道を たどっている。はやく、自分の心が自分に戻ってくればいいなと思う。
ある方法を使うと、痛くない死にかたが出来るらしい、海外の安楽死推薦団体も推奨する方法だとかなんとか、ネットに書いてあった。結局、私は、いまだに あの音楽室の窓から飛び降りれずにいた時から何も変わってない、あの日からずっと。
いま通院している医師とは何年もかかったけど、ようやくコミュニケーションがとれるようになってきた。病名?障害名?症名?診断名? なんと言ったらいいのかわからないけど、アスペルガー障害という精神障害という名前で診断が現在おりている。診断書が出たことや、カルテの開示請求をしたことで、自分が本当におかしいことがわかった書類にしてあるので、文字にされたものを読めるのだけれど、たしかに理にかなっていた、、しかし、ここでもまた困ったことが起きた。自分が今きいている声が幻聴なのか、いま自分が錯乱しているのかしていないのか、自分の言おうとしていることばが言っていいことなのか、相手に伝わらないことなのか、伝わっているのか、いないのか、相手がわからないふりをしているだけなのかどうなのか、それが自分で判断できなくなったのである、、、。
両親を訴えてていたが、原告被告共に本人訴訟で挑む(臨むではなく挑む)格好となりはっきりいって裁判にならないので一回目弁論期日で紛争解決条項をつけて訴訟終了というかたちで終わらせてもらった。親父は、答弁書で私を異常者扱いし、虐待があったことへの謝罪の意はないとしていた。
「失われた30年に向かいつつある」という言葉がある。私がものごころついてからこの国は失われた道を たどっている。はやく、自分の心が自分に戻ってくればいいなと思う。
ある方法を使うと、痛くない死にかたが出来るらしい、海外の安楽死推薦団体も推奨する方法だとかなんとか、ネットに書いてあった。結局、私は、いまだに あの音楽室の窓から飛び降りれずにいた時から何も変わってない、あの日からずっと。
0コメント