障害者を雇用する負担について考える話 -障害者の権利に関する条約-
障害者を雇用する負担について考える話 -障害者の権利に関する条約-
「障害者を雇用する負担」、こういうキーワードが絡むと
差別主義者だと捉えられかねない雰囲気において、
なぜ「障害者を雇用する負担」という話をもちだしたかというと、
障害者の権利に関する条約(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/nc_seimei.html)
この条約の第2条「定義」に書かれている「負担」に目を向けずに議論が進んでいるということは、「何が条約の言う -合理的な配慮- であるか?」という議論を停止させるのではないかという考えで、この話を持ち出したのです。
「合理的配慮」とは、「 「合理的配慮」とは、障害者が他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう。」と定義されている。
たとえば、車いすの人を企業が雇用する場合において、社内をバリアフリーにしたり、エレベーターを設置しなければいけないという必要性があれば、それは企業側の負担ではないかということを言いたいのである。
少し説明が足りないかもしれないが、想像力を働かせて理解して欲しい。
というのも、こういう質問がきた
これは、考え方のマジックであって、私が言っているのは、
エレベーターが無い事業所において、車いすの人を雇用するにあたって
投資としてエレベーターを設置しなければならないという「投資」を
負担だということを言っているわけです。
他にも、「エレベーターがないなら2階で無理に仕事させずに1階で作業させればいいじゃないか」という指摘が出そうだけれども、そういうことを言っているのではなくて、なんらかしらの負担が雇用する側に生じるケースを例として出しているのであって、素直に文脈を読み取ってほしい。
アファーマティブアクションというものを否定するわけではないけれど、負担というものが存在するという事実に蓋をしてしまっては現実的な議論にならないのではないのです。
議論をするのであれば、存在している事実を共有認識し、実態を把握したうえで議論することが、建設的な議論や、実のある議論をするために必須ではないかと考える。
たとえば、乙武洋匡さんが 銀座レストランに入店拒否され憤慨した話にしても、乙武さんは、障害者の権利は意識の中にあっただろうが、レストランの負担について意識は、薄弱だったのではないかと思う。
さて、障害者を雇用する負担について考える、という命題に戻すとして。
どんな負担があるかということを明確にしたうえで、それが過度な負担か、受忍すべき負担か、ということを切り分ける議論をすべきだと思う。
「これは、受忍できる負担」 「これは、過度な負担」 ということが明確にされ、周知されていれば、企業側も行うべき配慮について事務的にも現場での運用にしても、きちんとした措置をとる根拠ができるし、合理的な配慮の普及につながるのではないだろうか。そして、障害を持つ人から一方的に権利を振りかざされるされるような、ややこしい目に合わなくて済むというメリットがある。障害を持つ人からしてみても、常識的に受けることの配慮が明確なので、明確にされた配慮を要求できるというメリットがある。「負担」という事実を議論することは、双方にとってWin-Winではないだろうか。精神障害についても法定雇用率が引き上げられるようですが、たとえば うつ病の人が常識的に配慮してもらえる負担を明確にすれば「鬱は甘え」というように、配慮をもとめる人への中傷も少なくなるだろう。どこからが甘えで、どこからが甘えではない、ということが明確になるわけなのだから。ちなみに、すべてを「鬱は甘え」として配慮を否定するようなことは差別であると条約には記載されている。
条約で、締結国は「この条約において認められる権利の実現のため、全ての適当な立法措置、行政措置その他の措置をとること」を約束している。
しかし、こと日本の措置は、障害者を擁護するように啓もう活動を行うことばかりで、障害者への配慮の負担についての調査は行われていないように感じる。世間的にも「負担」についての議論は、まったくといっていいほど公に行われていない。
権利をとなえる障害者側にも、その権利には負担があるのだということを理解してもらうべきだし、その他の者にも、受忍できる負担というものがあるのだということを理解してもらうべきではないだろうか。つまり、最近でも視覚障碍者の人が駅のホームから転落して亡くなるという事故があったけれど、点字ブロックやホームドアがあれば防げるという「配慮」の部分だけが注目されて、点字ブロックやホームドアを設置する費用という「負担」には目を背けている人が多い気がするのです。そういう経費がかかるよねという「負担」を直視すれば、「そのくらいの負担なら誰かがしないといけないね、10円くらい切符の値段があがるという負担もしかたないかもしれないね」という、リアルな話になってくるということです。
他にも、何が「均衡」のとれた状態かという話もでているかもしれない。
とにかく、障害者の人権を本当に守ろうと考えるのであれば、「負担」というものに目を背けて、配慮の必要性だけを訴えるだけでは、偽善に感じられて、受け手の心に言葉は虚しく響くのかもしれないというような事も言いたい。
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