昨今の正義論について欠けている点についてのブログ - 東京裁判を例にあげて

最近、法務博士や、法曹の方に、私のブログを読んでもらえる機会が増え、
私の個人的な考察を専門家の人に見てもらえていることを幸いに思っている。
目を通してもらえるだけでも、なかなか無い機会であり、感謝を申し上げたい。

法律に興味があり、たまに本を読んだりするなかで、
法の淵源を知りたいと思うようになり、『尊厳』についての
本を読んだことがあるのだが、実にそういった哲学の本は興味深かった。

最近は、アメリカの、警察官による黒人殺害事件に対するデモで
「正義を!」と訴える人がテレビのニュースに映るのを見て。

「正義」というものについての本を1冊だけでも読んでおきたいと思っている。

ただ、少し前に流行った、マイケル・サンデルの「白熱教室」でやっているような、
正義の議論は、首を傾げる部分が多いと思っている。しっくりこない。
もちろん、議論の土台としては、しっかりしているのだけれど、方向性に疑問がある。

今日、そういった話をSNSでしていて、ひとつのアイディアが生まれた。

「愛とは何か?」を論じる前に、「正義とは何か?」を
論じるのは間違っているのではないかというアイディアである。

「白熱教室」のトロッコ問題を例に挙げると、
「大声を出して全員が線路から逃げるように知らせる」
といったような回答をすると、
「いい回答だが、私の質問の命題をいともかんたんに崩壊させた」
という言われてしまう学生がいた。
しかし、そもそも、その命題には、あまりにも「愛」がない。

では、そのトロッコの線路の先にいる幾人かの人が
紐か何かで縛られて、自由に動けないのだとしたら、
普通に考えたら、トロッコのレバーをどっちに引くかの後に、
線路に縛ったやつを殴り倒しに行く、と私なら答える。

法律において、正義を社会において応用した概念が採用されている。
それは、『社会正義』と日本の法律には書かれている。
刑法の単位は取っていないので、これは学術的な意見というよりは、
個人的な、作文になってしまうのだけれども、

正義という概念は、確かに存在する。

しかし、偽物の正義も、また存在する。


東京裁判を例にして、唱えてみたいと思う。
日本は、日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の、
第11条において、東京裁判を受諾している。

「愛とは何か?」を論ぜないままに、正義を語るとすれば、
戦勝国が敗戦国を裁くのも、正義であり、A級戦犯は犯罪者である。
日本は、正解征服をもくろみ、敗戦した枢軸国であった。
というのが、正義として成り立つことになる。

それでは、「愛とは何か?」を論じて、正義を語るとすれば
どうであるだろうか。まず、愛という概念は、確かに存在する。
A級戦犯とされた人達の親族はどうなるだろうか、
東京裁判の正義を受け入れることに、愛はあるのだろうか?
『愛国心』とか、そういう愛は無視されていいのだろうか?

そう考えれば、東京裁判は、正義に適っているのだろうか?

正義とは何かを熱心に議論するよりも、愛とは何かということから、
議論してから、正義について議論すべきである。

私は、「愛とは何か?」を解決できない正義は、正義ではないという立場に立つことにした。

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